【私の魂の導き、再びここに生まれる】
幼少期の頃から、私は断片的に時々、自分が今ここにいる前に、別の場所にいたような感覚に襲われることがありました。その感覚は、まるで、自分が今ここにいる前に、別の場所で別の経験をしてきたような、不思議な感覚でした。そのため、今の自分が、自分の存在に違和感を感じることがありました。例えば、「今回は日本語を覚えるんだ…」とか、服のボタンをボタン穴に入れることができない自分に、「もっと手先が動いたはずなのに…」、「お風呂の中の床に足が届いていたのに足が届かない…こんなに短かかった?」、「もっと自由に体が移動できたはずなのに動きが鈍くなった…」といった、やきもきした感覚がありました。初めて食べたキャラメルを食べたとき、その甘さは、私の舌に強烈な刺激を与え、まるで別の世界に来たような、不思議な感覚でした。その感覚は、とても不快で、思わず吐き出してしまったほどでした。また食べ物に対する違和感から2歳近くまで固形物を食べることを拒否していました。
これらの記憶は、私の中に、鮮やかに深く根ざし、消えることなく、まるで私の成長を映し出す鏡のように私の現在を生き続けています。そのため、今の私は幼少期の頃と、それほど変わらない感覚を抱いているようです。
【世界は、私の遊び場だった,…幼稚園時代】
私は天真爛漫で活発な性格で、一人で自転車に乗って知らないところを冒険するのが大好きでした。幼稚園時代は、同世代の子との会話よりも先生との会話の方が面白く感じ、毎朝、教員室を訪れるのが日課になっていました。この頃の夢は世界のあちこちを旅する冒険家でした。
小学生時代
小学生の頃は、誰とでもすぐに打ち解ける性格だったので、友達作りに困ることはありませんでした。男の子が弱い者いじめをしていると、間に入って笑いを取ったり、一発背中を叩いて止めに入る女の子でした。
この家族の末っ子として、今回は生まれてきたという思いがありながらも、どこかで違和感も感じていました。しかし、楽しむ生活も淡々とする、そんな小学生時代を過ごしていました。
厳格で表現方法が乏しい父親に、6歳年上の長女が反発し始めたのは、私が小学4年生の頃です。両親に何の不満もなかった私は、姉の反発が不思議でしたが、姉の非行がエスカレートしていくにつれて、家庭内は笑顔のない冷めきった空間になっていきました。
その以前から、この家族はどこかぎこちないなと感じていましたが、このままでは家族がバラバラになると感じ、小学4年生の時に家族の会話を深めようと「家族新聞」を発行し、家族に見せました。しかし、父が褒めてくれても、協力してくれる家族は誰もいなく、家族新聞は1号で終わってしまいます。
なんとかしなければと思う毎日でしたが、何もできない自分に力不足を感じました。母親が真夜中の台所で、長女のことで顔を覆って泣いている姿を見て、自分にできることは自分の感情を抑制し、両親に迷惑をかけないことだと感じ、そのことを自分で誓ってしまったことが、今、思うと大切な繋がりを切ってしまったのだと思います。
中学生時代
中学1年生の夏休み頃から、体調と精神面に変化が表れ始めます。顔全面には多くの吹き出物ができ始め、小学生の頃の天真爛漫な性格は、中学2年生の頃には、髪の毛で顔を覆い、言葉数が少なくなり、言いたいことも言わない、180度変わる内向的な性格になっていました。
2年生の進路面談では、人と人との仲介者である心理カウンセラーになりたいと担任の先生に熱心に伝えましたが、父親に相談すると、「もっと建設的な仕事を選んだ方がいい」と一言で却下され、未来の方向性が見えなくなりました。
高校時代
高校1年生の春に、アトピーと診断され、ステロイドホルモン薬を顔に塗り始めます。しかし、いくら塗り続けても効かなくなり、徐々に強いステロイドホルモンを処方されるようになっていきました。
体の機能が徐々に低下し始め、体が重く、動けない状況が続きます。それでも体に鞭を打ち、根性だけで学校に通いました。睡眠もできず、勉強も頭に入らず、学力は低下していきました。
あまりに苦しい毎日で、本屋で購入した精神内科の先生に手紙を書きましたが、返ってきた手紙の内容は長々と先生視点で書かれており、そのようなことを悩んでいるのではないと絶望的になりました。誰にも相談できず、ある日、部屋で意識を失って倒れている自分に気づきます。
このまま生きていると精神的に病んで死んでしまうと感じ、高校2年生の時に、この家から脱出しようと決意し、半年で書類を揃えてアメリカに留学しました。
アメリカ留学
アメリカの高校で歴史の時間に黒人奴隷について学んでいる時、一人の白人男子生徒が急に立ち上がり、黒人の女子生徒の前に来て「過去は色々あったが、未来に向けて一緒に進んでいこう。よろしく」と手を差し伸べた光景を見てショックを受けました。
自分が姉のことで悩んでいたことがあまりに小さすぎて恥ずかしく、馬鹿馬鹿しく感じたからです。「姉は元気で生きているじゃないか!問題なんてない!」
しかし、アメリカの生活を終え日本に帰国しても、家族関係は改善しておらず、むしろ姉の状況は酷くなっており、両親の対応に愕然としました。
「親はどうして目の前の問題を放置し続けるのだろうか…?」「私の考えの方が間違っているのだろうか?」
高校卒業後
高校を卒業して1年間予備校に通いましたが、未来の方向は決まらず、「こんな生活を望んでいる自分ではないのに、何を私はしているんだろう?」「私はなぜ、ここにいるのだろう?」「何のために存在しているのだろう?」そのようなことを考えては、社会に順応しなければいけないんだと自分を誤魔化す毎日と葛藤していました。
予備校に行っても受験勉強自体に何の興味もない自分に気づき、途中で行くことを辞めてしまいました。
そして、日本でカウンセリングの勉強ができないのなら、心理学が日本より30年進んでいるアメリカで心理を勉強しようと、親を説得し、東京の英語学校に通うために上京しました。
上京後
しかし、上京して間もなく、長期間のステロイドホルモン薬の副作用で身体の抵抗力がなくなり始め、顔の肌が薄くなり、血管が浮き出て来たり、髭が生え始めたりと、様々な症状が出始めました。
精神的には、情緒不安定、不眠、記憶障害、うつ状態と、様々な異変が出始め、寝たきりになることも多くなりました。本屋でステロイドホルモンの副作用により廃人になると書かれていた本を読んで、翌日にステロイドを辞める決断をしました。
3日目からみるみる顔がムーンフェイス化し始め、眉や髪の毛が抜け、目からは膿が出て目が開かなくなるほどでした。鏡の前に映る自分の顔が崩れていく様子を脳が把握できなくて、泣くより笑う状態で、「人間とはなんと脆い生き物なんだろう。たった1つの乱れで全身がこのように影響されるんだ」「人間の体はぬいぐるみをまっとって出来ているようなものだ」と感じました。
湧き出る痒みが24時間休みなく続き、全身の肌は剥け、1か月もたたないうちに全身は血だらけの被爆者のようになっていました。寝るときは椅子に座った状態で、これ以上皮膚を傷つけないように指にはテーピング、顔にはミイラのように包帯を巻きました。
ホルモンバランスの乱れから、交感神経と副交感神経が真逆になり、夜中の12時から目が覚醒し始め、朝の6時頃に眠くなるようになりました。それも全身を掻ききって疲れはてて眠りに付くため、「まだ生きていた」と感じながら起きることが何度もある日々でした。意識が朦朧になる中、聞こえてくるのは自分の心臓の音だけでした。「ドックン、ドックン…」。心とは裏腹に心臓は力強く正確に打ち続け、生きたがっているのだと感じました。
目覚めてからの最初の行動は、背中に貼り付いた膿だらけのシャツを剥ぎ取ることから一日が始まるという、長い闘病生活が20歳から始まりました。
20代前半
薬害の副作用で体重が20キロほど一気に増加しました。外見があまりにも変わり果てていく姿を受け入れられず、夜中に痒みを誤魔化すためにも過食の日々が続きました。
数か月たった時に、同じ行動をしていても変わらない自分に気づき、ステロイドホルモンの薬を体内から出そうと断食を開始しました。短い期間で1週間、長い時で1か月半、水と柿茶で過ごす日々でした。マイナス思考にならないように意識が朦朧となりながらも、本が読める時は精神的な本を読みました。
天井の模様を見る毎日でしたが、少し動けるようになってから、アトピーの治療が出来るという病院に2度、入院しました。しかし、漢方薬と3日ほどの断食のみで、退院すると逆戻りしたことから、病院では治すことはできないと知り、サプリメントの本を購入して海外から個人輸入したり、湯治治療に行ったりと、あらゆる角度から治療方法を模索することにしました。
自分の体を実験台にして様々な方法を試しましたが、少し改善すればまた悪化するの繰り返しに、「地獄があるとするならば、身体が思うようにいかないこの状態そのものが地獄だ」と痛感しました。
20代後半~30代
24歳の時に気分を変えて母と3日間の北海道旅行をしたことで、北海道には梅雨がないことと、環境が良さそうだったので、宿泊したホテルのコンビニでアルバイト雑誌を購入し、豪雪地帯のリゾートスキー場に応募し、約2年間住むことになりました。
ここでの生活で心身ともに癒された後、実家に戻り、アトピー治療を続けながら会社復帰しました。しかし、正社員として働くも半年すると病状が悪化し、顔がケロイド状態になります。顔に包帯を巻いて出勤したりと努力をしましたが、振り出しにもどるかのように体が動かなくなったため、正社員として働くことを断念しました。
希望を取り戻したのに、またどん底に落とされた状態・・・。
それでも、10代の頃になりたかった心理カウンセラーを少しでも始めようと、カウンセラー養成講座に申し込みましたが、外出すると意識朦朧となり、寝たきりが何週間も続くために数回のみの参加で断念しました。
仕事だけでなく、結婚は勿論、普通の生活もできない自分に、未来に対して考えることは難しい20代を送りました。
30代
30歳になっても諦めずに治療方法を模索し続けました。半年ほど仕事をすると体が動かなくなることから、アトピーの免疫疾患だけの問題ではないと思い、良いと言われた整体やカイロプラクティックを訪ねました。
しかし、頚椎と恥骨の骨がずれて、複雑に捻じれているので、手を加えると神経に当たって切れてしまうので根本治療は難しいと、どの医者からも言われました。
どの接骨院に行っても、一時的な治療で、動き回ると寝たきりになってしまう生活を30代は過ごしました。1日外出すれば3、4日寝込むという体だったので、仕事は単発な仕事しか出来なくなっていました。
「太陽は必ず昇る。それも朝日が昇る直前が一番暗い。希望を持とう」と自分に言い聞かせて毎日を過ごしました。
そして、何度も良くなっては悪化の繰り返しに、半分開き直りと、アトピーとの共存も一つに入れようとする考えにもなっていました。
そんな開き直りの30代が終わるクリスマスの時期に、次女が横浜から一緒に連れてきた男性を紹介されたことで、人生は思いもよらない方向に進んでいきます。
彼は、イラン・イラク戦争の特殊部隊の更に特殊なブラック隊でスナイパーであった経歴を持つ、元軍人でした。部隊の中でたった一人、生き残った英雄として、数十個のメダルをイランで持っていましたが、戦争の後遺症はまだ残っていて、私と出会った時も、体や神経に問題を抱えていました。体内には爆弾で受けた破片が、大小合わせると数百個残っていました。大きな破片は6㎝もあり、肺の横の肋骨の中に入って手術は困難なため、50歳まで生きられないと言われていました。脳にも2㎝程の破片が3個残っていて、記憶障害になる可能性もありました。
彼は私を見た時に愕然としました。なぜなら、彼は私を探し続けていたというのです。5年ほど前に、横浜に住んでいた姉のアパートに3泊だけしたことがあり、向かいの家に住んでいた男性と「おはようございます」と1度だけ挨拶をしたのが、彼だったことを思い出しました。
その時に彼は「僕の奥さん歩いている」と感じて、今までずっと探していたと言いました。
私は自分の身体のことがありましたが、どこか懐かしいと感じる感覚があり、自分の感覚を信じてお付き合いを始めることにしました。
それから数年間の間に、様々な出来事が起こり、私たちの人生は「事実は小説より奇なり」の物語を展開していきます。
まず、彼は戦争で9mの爆弾を2mと6mの至近距離で2発も連続して受けたにも関わらず生きていました。もちろん、身体は79%のダメージを受け、2日後には死ぬと医者から宣告されていました。
しかし、彼は夢の中で、ある人物と3つの約束をしたことで、翌日に肛門から出ていた内臓が元の位置に戻り、破損していた血管が修復されていました。
さらに、被爆後の意識不明の間、彼はあの世に3,000年存在しており、その様子を私に語ってくれました。その内容には、私たちの出逢いについても含まれていました。
彼は、愛する女性の死が原因で4回の自殺を試みたのですが失敗し、死ぬ目的で参加したのが戦争に志願した理由でした。そのため、自分が死んだのなら愛する女性に会いたいとあの世で伝えたところ、「彼女は生きておる」とある人物が下界を指さして、髪の毛の長い花柄の服を着た女性を見せたというのです。
そして、「探すだけのことはある。古い町を探せ」と彼に伝えたそうです。女性の顔もどこに住んでいるのかも分からなかったのですが、古い町だということは背景で感じとったということでした。
生還してから無謀な試みだと何度も感じながら、あの世で言われた言葉を信じて世界を回り、137カ国目に日本の地を踏みました。
結婚後
結婚してから1週間後の真夜中に突然、彼は飛び起きて、私たちが過去に2回の出逢いがあったことを思い出し、語り始めました。
1回目は、私が学生の時に上京していた時に、ある事務所で2時間ほど会話をしていたこと。
このことは、2人とも遠い記憶のことで忘れていました。
2度目は、横浜にいる姉のアパートの前の家に住んで挨拶していたこと。
そして、3回目が姉を通じて京都で出会ったことでした。
また、彼が20代の頃、中国に旅行した時に出会った整体師が並外れた技術を持っており、興味本位から技術を取得したことで、不可能だと言われていた私の骨の歪みを10年かけて治すことができたのです。
また、彼の身体にも変化がありました。致命的な6㎝の破片と脳にあった破片もあり得ないような出来事で、手術をしなくても生きていくことが出来るようになりました。
そして、徹底的な出来事といえば、彼の愛した女性と私との関係でした。
彼女の生まれた年、月、日、生まれた時間が、イランと日本の時差を計算すると、全く私と同じだったのです。
そして、私と彼女の匂いが一緒だという彼の発言から、医者の彼の姉が「ありえない」といいながらもDNA鑑定をしたところ、古いか新しいかの違いだけで、1000%の数値で同一人物という結果が出たのです。
このことが事実か、そうでないかは読み手の判断に任せようと思いますが、ただ、私たち2人の経験から、この世はあり得ないことがあるということです。作りだされると言っても良いかもしれません。
もちろん、ここに来るまでの間には、彼の戦争PTSDの克服までの道のりがあり、良い出来事ばかりではありませんでした。家の壁にある幾つかの大きな穴は、彼が暴れた時にできたものですし、お気に入りの食器は何個も飛んで粉々になり消えていきました。
DVも経験しましたが、後で部屋からすすり泣きの彼の声が聞こえてくると、私以上の深い苦しみがあると理解することができました。
辛い過去を見るよりも、新しい未来の夫の映像を何度もイメージし、この状況は単なる経過だと俯瞰してみることをしました。
これは、アトピーで繰り返された経験により得ることができた私の成果でした。
また、戦争体験は経験していない私ですが、アトピーで体が被爆者のようになったことで、身体の痛みや辛さがどんなことか、少しは想像がつくようになりました。
1回目に出会った10代で、仮に一緒になっても、当時の私には経験が未熟で、今のように彼に付き添うことはできなかったでしょう。
このような面白い未来の展開を体験することもなく、狭い視野だけに捉われて、2人は分かれていたように思います。
2度目に出会った時も、まだ時期ではなかったのでしょう。
そして3回目の出逢い。
かと言って、現実世界での今の生活が全て完璧ということではありません。
2人とも人を信じたいという思いから、詐欺に合うことが度々ありました。
特に大きな金額の詐欺からの影響で、かなりの期間が尾をひいた状況になりましたが、困難な経験を通して、お金の大切さを学び、より、豊かに生きるための方法を、探求するようになりました。
未来は私たちが思っている以上に可能性が秘めていると、私たち2人の経験から感じることができます。
私が経験したことは、私だけが起きることではありません。
それは、あることが鍵になっていると、夫がいつも口にすることです。
「人間は私たちが思っている以上の計り知れない能力を持っている。それを閉じ込めているのは誰? そして、それを開けるのも誰?」
あなたと一緒に、その能力を開花させるお手伝いができたらと思っています。
私は、長い間、心の傷と向き合ってきました。
幼少期の記憶から始まり、アトピー、そして、家族との複雑な関係。
いくつもの試練を乗り越え、それでも、人生は、予想外の展開を見せてくれました。
私の人生には、多くの困難がありました。
でも、その困難を乗り越える中で、私は、大切なことに気づきました。
それは、どんな困難にも、必ず光は存在するということ。
そして、その光を見つけるのは、自分自身ということです。
私は、自分の経験を通して、多くのことを学びました。
困難に立ち向かう勇気、希望を見つける大切さ、そして、愛の力。
私は、これらの経験を、多くの人と分かち合い、もし、今、一人で悩んでいるあなたがいるのであれば、一緒に心の傷を癒すお手伝いをしたいと思っています。
もちろん、傷を癒すだけでなく、自分に自信を持ち、あなたの人生を輝く未来に開拓する力をつけていけるよう、サポートします。
どんな困難に直面しても、あなたは決して一人ではありません。
一緒に乗り越えていくことができます。
あなたのどんな辛い経験も、必ず、あなたの人生を豊かにする糧になる。
私は、そう信じています。
そして、私は、こんな社会を、目指したいと思っています。
それは、
「誰もが、自分の心の声を聴き、愛と希望を持って、生きられる社会」
です。
誰もが、過去のトラウマや心の傷を、抱えながら生きています。
でも、その傷を、克服し、自分らしく、幸せに生きられる社会。
そんな社会を、私は、実現したいと、心から願っています。
そのためには、
– 心の健康の大切さを、社会全体で、理解し、尊重する
– 心のサポート体制を、より充実させ、誰でも、気軽に相談できる環境を作る
– 心の傷を抱えている人が、自分らしく生きられる社会を作る
ことが、必要だと、私は、考えています。
私は、カウンセリングを通して、
– 一人ひとりの心の声を、丁寧に、聴き、寄り添い、サポートする
– 心の傷を癒すお手伝いをする
– 自信と希望を取り戻せるように、力を与える
ことで、この社会の実現に、貢献したいと思っています。
そして、
– 【愛と希望に満ちた私達の地球の未来を、一緒に、創造していきたい】
と、心から切に願っています。