こんにちは!
心理カウンセラーの岩本総子です。
生きづらさ、人間関係の悩み、アダルトチルドレン、愛着の問題、HSPの気質、そして体や心の不調で苦しんでいる方に向けて、心に寄り添うカウンセリングを行っています。
あなたが「自分らしく生きたい」と感じたその気持ちを、大切に育てていくお手伝いをしています。
【プロフィール】
幼少期から今世の自分とは違う意識を持っていると自覚していました。そのせいか、成長の過程の中で人間としての違和感や生きづらさをを持ちながら生きてきました。
それによって社会や人間関係、そして、この世界になじむことが非常に大変でした。
時間はかかりましたが、今は私と同じような感覚を持ち、生きづらさを感じている方や生きることに疲れてしまった方、人間として生まれてきた意味が分からなくなり、迷子になってしまったという方から私の経験をお話することによって多くの方が悩みの根本が分かり、「生きる意味が見つかった」、「希望と勇気をもらえた」とお声を頂けたので、ご縁のある方にカウンセリングを行っています。
この世界で生きる基礎を身に付ける、また「私」という人間を生かす方法を自分で見つけていくという行程を一人一人、じっくりとカウンセリングしています。
私は、長い間、身体のコントロールも効かず、数十年もの間を心も体もボロボロの状態で生きてきました。でも、あなたにはそんな年月は必要ありません。もっと軽やかに、本来のあなたを取り戻してほしいと心から願っています。
心も外見もトコトン病み、そして、どのような過程で回復できたのか、その経験によってあなたにお役にたてると強く思っています。
もし、あなたが今、大変な状態であったとしても必ず復活できるということ、
そして、どのような過去を背負っていても未来は変えられるということを心に留めておいて欲しいと思います。
ただ、カウンセリングが上手くいくかは、相性も大切です。そこで、私がどのような背景を持ち、今に至ったのかをご紹介していきたいと思います。

あれ!?ここは…?という想いを持ちながら過ごした幼少期
幼少期の頃から、私は、断片的に今ここに存在する前に、別の場所にいた感覚に襲われることがありました。それは、まるで以前に別の場所で、まったく違う経験をしてきたかのような、不思議な感覚に包まれることがあったのです。そのため、自分の存在に違和感を覚えることもありました。
例えば、「今回は日本語を覚えるんだ」という想い、ボタンをはめることすら難しい自分に、「以前はもっと自由に動けていたのに」という、もどかしさ、「お風呂の中の床に足が届いていたのに足が届かない…こんなに短くなったの?」、「もっと自由に体が移動できたはずなのに動きが鈍くなった」といった、やきもきした感覚。また、自分の頭が悪くなったように感じ、そんな自分に戸惑いながらも、必死で慣れない身体と生活に順応しようとしていました。
初めて食べたキャラメルの甘さは、私の舌に強烈な刺激を与え、まるで別の世界に来たような、不思議な感覚でした。その味わいはとても不快で、思わず吐き出してしまったほどです。味覚的にも固形物の違和感からも、私は2歳近くまで固形物を拒んでいました。
これらの記憶は今もなお心に刻まれており、私の成長を映し出す鏡のように、現在の私の感覚や思考に影響を与え続けています。 そのため、幼少期に感じていた違和感や感受性は、今の私の中にも色濃く残っています。
日常生活で様々な違和感を感じた幼稚園時代
私は天真爛漫で活発な性格で、一人で自転車に乗って知らないところを冒険するのが大好きでした。
幼稚園時代は、同世代の子との会話よりも先生との会話の方が面白く感じ、毎朝、自然と足が教員室へ向かい、先生とのおしゃべりが一日の始まりでした。
そんな私にも、どうしても馴染めなかったのが “プール遊び ”の時間でした。これだけは、どうしても馴染めませんでした。子供たちにとって、楽しい遊び場のはずだろうけれど、私にとっては、何故か居心地が悪く、不思議な景色のように感じる場所でした。あの狭くて丸い水の囲いに、何が楽しいのか全くわからず、私はただ呆然と見つめているしかありませんでした。 周りの子たちが水しぶきを上げてはしゃぐ姿を見るたび、私はなぜそんなに楽しそうなのか分からず、結局、毎回プールの時間は教員室で先生とおしゃべりをして過ごしていました。 それはまるで、彼らとは違う星から来たような感覚で、自分だけが別世界にいるような居心地の悪さを感じていました。
そんな違和感の中で、「私の感じ方はおかしいの?」と、自分を疑うような気持ちになることもありました。こうした違和感や不思議なズレは、日常のあちこちで顔を出していたように思います。 そんな日々の中で、私が夢見ていたのは、“世界のあちこちを巡る冒険家”になることでした。
姉の非行により家族とはなんだろう…と考え始めた小学生時代
誰とでもすぐに打ち解ける性格だったので、小学校の頃の私は友達作りには困らず、いじめがあれば笑いで間に入り、時には男の子の背中をバシッと叩いて止めに入るような、そんな元気な子でした。
家族の末っ子として、今度は生まれてきた──そんな思いを持ちつつ、どこかで説明できない違和感も抱えていました。けれど、そんな日常にも楽しみながら淡々と過ごす、そんな小学生時代を過ごしていました。
厳格で、あまり感情を表に出さない父に、6歳上の姉が反発し始めたのは、小学4年生のときでした。私は両親に不満を感じたことがなかったので、その変化がとても不思議でした。でも姉の非行が深まるにつれ、家の中からは笑顔が消え、冷たい空気だけが残るようになっていきました。
もともとどこかぎこちない家族だと感じてはいましたが、当時の私は “このままでは本当にバラバラになってしまう”という危機感を覚え、小学4年生の私は、家族の会話を増やしたくて『家族新聞』を作り、みんなに見せたのです。 父はそれを褒めてくれましたが、他の家族は誰も協力してくれず、『家族新聞』はたった1号で終わってしまいました。
大事な繋がりを絶ってしまった私
“どうにかしなければ ”と思う毎日でしたが、何もできない自分に力不足を感じました。ある真夜中、台所で母が姉のことで顔を覆って泣いている姿を見て、胸に深い悲しみが込み上げてきました。 そのとき私は、「自分は両親に迷惑をかけないようにしよう」と、感情を抑え込むことを自分に誓ってしまいました。今思えば、それが“自分自身との大切なつながり”を絶ってしまったように思います。
自分を見失い、迷路に入りこんだ中学生時代
中学1年生の夏休み頃から、体調と精神面に変化が表れ始めます。顔全面には多くの吹き出物ができ始め、小学生の頃のあの天真爛漫さは消え、中学2年になる頃には、髪で顔を隠し、口数も少なくなり、言いたいことを飲み込んでしまうような、まるで別人のような性格になっていました。
中学2年の進路面談で、”人と人の心の橋渡しがしたい”と心理カウンセラーの夢を担任の先生に熱心に伝えましたが、父親に相談すると、「もっと建設的な仕事を選んだ方がいい」と一言で却下され、目の前の未来がぼやけていきました。
自分で背負ってしまった何トンもの心の重荷…高校時代
高校1年の春、アトピーと診断され、顔にステロイドを塗り始めました。でも効果は続かず、薬はどんどん強くなっていきました。家族のピリピリとした空気も重なって、体は次第に重くなり、思うように動かなくなっていきました。けれど、根性だけで学校に通い続けました。
眠れない。勉強も頭に入らない。そんな日々が続き、学力もみるみる下がっていきました。
あまりに苦しい毎日で、本屋で購入した精神内科の先生に手紙を書きましたが、返ってきた手紙の内容は長々と先生視点で書かれており、そのようなことを悩んでいるのではないと絶望的になりました。誰にも気持ちを打ち明けられない日々。そんなある日、部屋で突然、頭が真っ白になり意識が遠のき、気づいたら倒れていました。鏡に映る自分の顔を見て、”このままでは心が病んで死んでしまう”と、はっきりと感じました。そして高校2年生のとき、私はこの家から抜け出すことを決意します。半年かけて必要な書類を揃え、自分の意志でアメリカへの留学を実現させました。
歴史の時間で自分の視野の狭さに気づいた私
アメリカの高校で歴史の時間に黒人奴隷について学んでいる時、一人の白人男子生徒が急に立ち上がり、黒人の女子生徒の前に来て「過去は色々あったが、未来に向けて一緒に進んでいこう。よろしく」と手を差し伸べた光景を見てショックを受けました。自分が姉のことで悩んでいたことがあまりに小さすぎて恥ずかしく、馬鹿馬鹿しく感じたからです。
「姉は元気で生きているじゃないか!問題なんてない!」
あの黒人の女の子に差し出された白人の男の子の手。それは、過去は癒され、未来は変えられる”ということを、私に教えてくれた瞬間でした。
しかし、アメリカの生活を終え日本に帰国しても、家族関係は改善しておらず、家族関係はむしろ悪化し、姉の状態はさらに深刻になっていたのです。そして、両親の対応には愕然としました。
「どうして親は、こんなにも目の前の問題を放置し続けられるのだろう……?」
「もしかして、私の感じていたことのほうが間違っていたのだろうか?」
閉ざしていた自分の心の声に耳を傾け始めた私

高校を卒業後、私は一年間、予備校に通いました。けれど、自分の未来の方向は一向に見えず、毎日が葛藤の連続でした。
「こんな生活を望んでいたわけじゃないのに、私は一体何をしているんだろう?」
「私はなぜ、ここにいるんだろう?」
「何のために、私は生きているんだろう?」
そんな問いが胸の奥で渦巻き、自分をだましながら社会に順応しようとする日々。
やがて私は、受験勉強そのものに何の興味も持てていない自分に気づき、予備校に通うことをやめました。
「日本では本格的なカウンセリングの勉強が難しいなら、心理学が日本よりも30年進んでいるアメリカで学ぼう」
そう決意し、両親を説得。心理学の学びを目指して、東京の英語学校へ通うため、上京することにしたのです。
上京後にまたもや身体に問題勃発…そして長い闘病生活が始まる
ところが、上京して間もなく、長期間使っていたステロイド薬の副作用が次々と現れ始めました。
皮膚が薄くなり、血管が浮き出し、顔には髭が生え始めるなど、信じがたい身体の変化が次々と起こったのです。
精神面でも、情緒不安定、不眠、記憶障害、うつ状態と、日々異変が重なり、寝たきりになることも多くなりました。
ある日、本屋で目にした一冊の本に「ステロイドの副作用で廃人になる」と書かれていたのを見て、私は翌日から薬を断つ決断をしました。
すると――
ステロイドを止めてわずか3日後から、顔が急激にムーンフェイス化し始め、眉や髪が抜け、目からは膿が出て開けられないほどに。
鏡に映る自分の顔がどんどん崩れていく様子に、脳が現実として認識できず、泣くよりもむしろ笑ってしまうしかありませんでした。
「人間って、なんて脆い存在なんだろう」
「ほんのひとつのバランスの崩れで、全身がこんなにも壊れてしまうんだ」
そう感じた私は、人の体がぬいぐるみのようにでできているのだと思えました。
全身の皮膚が剥け、24時間休むことなく湧き上がる痒み。
1か月も経たないうちに、体中が血だらけになり、まるで被爆者のような姿になっていました。
寝るときは椅子に座ったまま。
指には傷を防ぐためにテーピング、顔には包帯を巻いて――まるでミイラのような姿で眠りについていたのです。
ホルモンバランスの乱れにより、交感神経と副交感神経の働きが逆転し、夜中の12時を過ぎると目が冴えはじめ、ようやく眠気が訪れるのは朝の6時頃という生活が続きました。
しかも、眠りに落ちるのは、全身を掻きむしって、疲れ果てたあとのことでした。
「まだ生きていたんだ」――
そんな言葉を毎朝のように心の中で呟きながら、また一日が始まっていく。
意識が朦朧とする中で、はっきりと聞こえてくるのは、自分の心臓の音だけ。
「ドックン、ドックン……」
心とは裏腹に、心臓は力強く、正確に鼓動を刻み続けている。
そのリズムが、ただひたすらに「生きたい」と訴えているように感じました。
目覚めた私の最初の行動は、背中に貼り付いた、膿だらけのシャツをゆっくりと剥がすこと。
そんな日々が、20歳から始まった長い闘病生活の始まりでした。
良くも悪くも様々な感情を味わい尽くした20代
薬害の副作用により、体重は一気に20キロほど増加しました。変わり果てていく自分の外見を受け入れられず、夜中の激しい痒みを紛らわすように、過食の日々が続きました。
しかし、数か月が経っても変わらない自分に気づき、心の奥底から湧き上がったのは、 ”このままでは変わらない ”という思い。私は、体内に残ったステロイドを排出しようと断食を始めました。短いときは1週間、長いときは1か月半、水と柿茶だけで過ごしました。
意識が朦朧とする中でも、なるべくマイナス思考に陥らないようにと、本が読める日は精神世界に関する本を手に取りました。
面白いことに、断食が1か月を過ぎた頃から体重はピタリと落ちなくなり、食べ物が「ただの物体」に見えるようになっていきました。そして、五感が研ぎ澄まされていくのをはっきりと感じたのです。「もしかしたら、人は本来、食べなくても生きられるのかもしれない」とさえ思うほどでした。
天井の模様を見つめる毎日から少しずつ動けるようになると、アトピー治療ができると聞いた病院に2度入院しました。しかし、漢方薬と3日間の断食療法のみで、退院すればまた元に戻ってしまう…。その経験から「病院では本当の意味で治すことはできない」と感じ、自分自身で治療法を探す道を選びました。
サプリメントの本を読み、海外から個人輸入したり、湯治に通ったり…。自分の身体を実験台にして、ありとあらゆる方法を試しました。
けれども、少し良くなってはまた悪化する、その繰り返しでした。
「地獄があるとするならば、身体が思うように動かないこの状態こそが地獄だ」
何度もそう痛感しました。
そんな24歳のある日、気分転換に母と3日間の北海道旅行をしました。梅雨のない気候と清らかな空気が、どこか私を癒してくれたのです。宿泊先のホテルのコンビニで手に取ったアルバイト情報誌をきっかけに、豪雪地帯のリゾートスキー場での仕事に応募。約2年間、北海道で暮らすこととなりました。
希望を取り戻したのに、またどん底に落とされる状態
この地での暮らしは、心と身体を少しずつ癒してくれました。そして再び実家に戻り、アトピーの治療を続けながら会社勤めを始めました。けれども、半年後には病状が再び悪化し、顔がケロイド状態に。顔に包帯を巻きながら出勤する日々もありましたが、身体が限界を迎え、正社員として働くことを断念せざるを得ませんでした。
それでも、「10代の頃から夢だった心理カウンセラーの道を少しでも歩みたい」と思い、カウンセラー養成講座に申し込みました。しかし、外出すれば意識が朦朧となり、寝たきりになることが続き、わずか数回の受講で諦めることになりました。
仕事もできず、結婚も、普通の生活さえもままならない──。未来を考えることすら難しい20代でした。
諦めかけたその先に目の前に出された展開と課題
30歳を迎えても、私は治療方法を探すことを諦めませんでした。半年ほど働くと、また体が動かなくなってしまう…。
そんな経験を何度も繰り返す中で、もはやアトピーという免疫疾患だけの問題ではないのでは?という思いが芽生え、今度は整体やカイロプラクティックの門を叩きました。
けれど、どの治療院でも言われたのは、「頚椎と恥骨の骨が複雑にねじれており、手を加えると神経に触れてしまう可能性がある。根本治療は難しい」という言葉。つまり、技術的に治せる医師がいないという現実を突きつけられたのです。
少し動けば、寝たきり。
1日外出すれば、その後3〜4日は布団から出られない。
そんな体で、30代は単発の仕事を細々と続ける日々でした。
それでも、何度も繰り返されるアトピーの再発と身体の不調に向き合いながら、私は自分にこう言い聞かせました。
「太陽は必ず昇る。しかも、夜明け前が一番暗い。だから、希望を持とう──」
そんな中、当時としてはまだ珍しかったスピリチュアルカウンセラーの方々との出会いが続きました。彼らのカウンセリングを受ける中で、私は自分のこれまでの人生や、心の奥底にある感覚に静かに向き合い始めました。
その学びは、私の内側に少しずつ光を灯してくれました。
「生き方にはいろいろあっていい。私にも、私なりの生き方があっていいんだ」
そう思えるようになったのです。
それでも、症状は波のようにやってきました。良くなっては悪化し、また良くなっては…の繰り返し。
それならいっそ、「アトピーと共に生きる」という考え方も受け入れてみよう。そう思えるようになった頃、人生の転機が訪れました。
30代の終わり、クリスマスの時期。
私は、今の夫と出会いました。
夫は、イラン・イラク戦争の特殊部隊に所属し、スナイパーとして任務にあたった元軍人でした。部隊でただ一人生き残り、祖国で数々のメダルを授与されましたが、戦争の後遺症は癒えず、私と出会った当時も体と神経に大きな負担を抱えていました。
結婚後の衝撃の事実
結婚してから1週間後の真夜中に突然、夫は飛び起きて、私たちが過去に2回の出逢いがあったことを思い出し、語り始めました。
1回目は、私が学生の時に上京していた時に、ある事務所で2時間ほど会話をしていたこと。
このことは、2人とも遠い記憶のことで忘れていました。
2回目は、横浜にいる姉のアパートの前の家に住んで挨拶していたこと。
そして、3回目が姉を通じて京都で出会ったことでした。
また、夫が20代の頃に中国を旅行中、卓越した技術を持つ整体師に出会い、興味本位からその技術を習得していました。その技術のおかげで、不可能だと言われていた私の骨の歪みを、10年かけて改善することができたのです。
結婚までの間も、私たちは「小説より奇なり」としか言いようのない数々の出来事を体験しました。
偶然とは思えない再会や、説明のつかない導きのような流れ、そして一見不可能に見えた奇跡的な回復──
そんな経験のひとつひとつが、私の心に深く刻まれています。
こうした事実について、ある方々は「勇気をもらえた」「生き方が変わった」という感動の想い語で語ってくださいます。
一方で、あまりにも現実離れしているため、驚きや恐れを感じる方もいらっしゃるかもしれません。
そのため、ここでは多くを語りませんが、今後、ブログで少しずつ綴っていこうと思っています。
もしご興味がありましたら、そちらでお会いできれば幸いです。
夫との出逢いをきっかけに、私は結婚後もスピリチュアルな学びをさらに深め、カウンセリングを通じて、自分自身の心の奥底にある傷と向き合うようになりました。
また、夫も、戦争による心の傷と向き合いながら、少しずつ癒しを取り戻していきました。
私たちの生きている世界は在り得ないことも在り得るという意識の世界で出来ていた・・・!

私たちが生きている世界は、「在り得ないことも在り得る」という意識の世界でできている──。
夫の戦争体験やPTSD、そしてなぜ彼が戦争に参加するに至ったのか、その話を聞くうちに、幼い頃からの深い悲しみと苦しみの連鎖が、その背景にあったことを知りました。
夫との生活の中では、DVという形で私自身も傷つくことがありました。
けれど、後に夫の部屋から小さくすすり泣く声を聞いたとき、私は気づきました。
私以上に、夫自身が深い痛みと絶望を抱えていることに。
心の健康の大切さ、そして傷ついた心を癒すことが、人生を歩むうえでどれほど重要なものか──
私は改めて、身をもって知ることになりました。
過去に囚われすぎることなく、新しい未来の映像を何度も心に描き、
「今は単なる通過点」だと俯瞰するよう努めました。
私は戦争体験こそありませんが、アトピーによる激しい痛みや、皮膚が被爆者のようになった経験から、
肉体的な苦しみの一端を想像することができるようになっていました。
それも、長年アトピーを通して私が得た、大切な学びの一つでした。
──もし10代の頃、1回目の出会いで夫と一緒になっていたら。
あの頃の未熟な私では、きっと夫の痛みを受け止めることはできなかったでしょう。
そして、面白い未来の展開を体験することもなく、狭い世界の中で私たちはすれ違っていたかもしれません。
2度目の出会いも、まだ時期ではなかった。
そして3回目、ようやく、私たちは「今」出会うべきタイミングで再び巡り会ったのです。
私たちは人を信じたいあまりに、詐欺にも何度も遭いました。
特に大きな金額を失った詐欺では、その後長い間、立ち直るのに時間がかかりました。
けれど、その苦しい経験があったからこそ、お金の大切さ、
そして豊かさを築いていく方法を、私たちは必死に探求するようになったのです。
未来は、私たちが思っている以上に、無限の可能性を秘めています。
「人間は、私たちが創造している以上の計り知れない力を持っている。それを閉じ込めているのは誰? そして、それを解き放つ開けるのも、誰?」
私は、長い年月、心の傷と向き合ってきました。
幼少期の記憶、アトピーとの闘い、家族との複雑な関係、寝たきりの日々、度重なる挫折、
そして夫の戦争PTSD、詐欺被害──数え切れない試練を乗り越えながら、それでも、人生は予想もしない展開を私に見せてくれました。
私の人生には、たくさんの困難がありました。
でも、その困難をくぐり抜けた先には、必ず「光」がありました。
どんな暗闇にも、どんな絶望にも、必ず光は存在する。
そして、その光を見つけるのは、自分自身の力だと、私は知っています。
私は、自分の経験を通して学びました。
困難に立ち向かう勇気、希望を見つける力、そして、愛の癒しの力。
私が経験してきたことは、特別なものではありません。
あなたにも、きっとできる。
あなたが「自分を信じて一歩を踏み出す」ことができれば──。
もし今、あなたが一人で悩み、苦しんでいるのなら、
私は、あなたと一緒に心の傷を癒し、希望の道を歩んでいきたいと思っています。
ただ傷を癒すだけではありません。
あなた自身が、自分の人生に誇りを持ち、未来を自分の手で輝かせる力をつけられるよう、全力でサポートします。
どんな困難に直面しても、あなたは決して一人ではありません。
一緒に、越えていきましょう。
あなたのどんな辛い経験も、必ず、あなたの人生を豊かに彩る糧となる──
私は、心からそう信じています。
私は、今世だけの記憶では解決できない、心の奥底にあるモヤモヤを抱えていました。表面的な学びだけでは満たされず、もっと深く、魂レベルでの学びが必要だと気づいたのです。
もしあなたが、HSPやアダルトチルドレンの傾向があると言われたことがあったり、自分自身でそう感じているなら──。
あなたは、たとえ意識では覚えていなくても、魂レベルでは過去のトラウマや心の傷を記憶しているのかもしれません。その無意識の記憶が、今のあなたの行動や感情に、影響を与えている可能性があります。
あなたが抱えている悩みや苦しみは、過去の経験を通して、あなたが成長するために必要な課題なのかもしれません。そして、その課題を乗り越えることで、あなたはさらに深い自己へと進化していけるでしょう。
スピリチュアルな学びは、人生をより深く理解し、豊かに生きるためのヒントを与えてくれます。
しかし、現実の中で具体的に行動し、変化していくことと結びつかなければ、それはただの美しい言葉になってしまうかもしれません。
行動を伴わない学びは、時にかえって不安や迷いを深めてしまうこともあるのです。
私たちは、肉体を持ってこの地上に生まれ、やがて寿命を迎えます。
そのタイムリミットを迎えれば、私たちはこの体を脱ぎ捨て、生まれる前にいた場所へと還っていきます。
今は忘れているかもしれませんが、そこは、かつてあなたが経験した、懐かしい場所なのです。
これは、誰にとっても例外のない真実です。
だからこそ──
「この限られた時間を、どう生きるか」がとても大切なのです。
苦しみや悲しみを背負ったまま生きるのか。
それとも、限りある時間を楽しみ、味わい尽くして生きるのか。
その選択こそが、あなたの人生を大きく左右します。
私は、次のような社会を目指したいと思っています。
「誰もが、自分の心の声を聴き、愛と希望を持って生きられる社会」
過去のトラウマや心の傷を抱えながらも、自分らしく幸せに生きられる社会。
そんな世界を、私は心から実現したいと願っています。
そのために必要なことは──
・心の健康を社会全体で大切にし、尊重すること
・誰もが気軽に相談できる、心のサポート体制を整えること
・心に傷を抱えている人が、自分らしく生きられる環境をつくること
私は、カウンセリングを通して、
・あなたの心の声を丁寧に聴き、寄り添い、サポートすること
・心の傷を癒すお手伝いをすること
・自信と希望を取り戻す力を引き出すこ
これらを通して、この理想の社会づくりに貢献したいと考えています。
そして──
愛と希望に満ちた世界で、誰もが安心して「自分らしく生きられる社会」を、あなたと一緒に創りたい。
日本は戦争のない国ですが、私の夫の母国では、宗教対立から戦争が起こる可能性が、今も日常にあります。
でも、宇宙の視点から見れば、私たちは皆、繋がっています。
戦争や争いは、愛と調和の世界を妨げるものです。
だからこそ、私は一人ひとりの心の平和をサポートすることで、世界全体の平和に貢献したいと考えています。

あなたは忘れているかもしれません。
でも、どこか深いところでは、きっと覚えているはずです。
それは、あなたがこの世界で果たす役割や、魂が選んできた使命かもしれません。
もしかしたら、その記憶と今の現実との間にある ” ギャップ ” が、あなたを苦しめているのかもしれません。
けれど、あなたは今、確かにここに生きています。
生きている限り、あなたの内に秘められた可能性は、必ず花開くことができます。
最初は難しいと感じるかもしれません。
でも、どうか忘れないでください。あなたは決して一人ではないということを。
「こんなこと、聞いてもらえないかもしれない」
「こんな話、口にするのは抵抗がある」
そう思ったときは、無理に言葉にしなくても大丈夫です。
あなたが持っている素晴らしい未来があることも、
そして、そんな未来に向かえないと感じる日があってもいいことも、
私は、どちらのあなたも深く理解しています。
もし今、生きづらさを感じていたり、
人間関係で悩んでいたり、
アダルトチルドレンやHSPの気質、愛着の問題で苦しんでいたりしたら──
どうか、一人で抱え込まずに、気軽にお話しに来てください。
あなたは一人ではありません。
あなたが少しでも「ここはホッとできる場所だな」と感じられるよう、
私は心を込めて、あなたのお話を聴かせていただきます。
もし、私のプロフィールを読んで、
「話してみたい」「相談してみたい」と、少しでも心が動いたなら──
どうぞ、気軽にご連絡ください。
どんなあなたであっても、私は、あなたにお会いできる日を心から楽しみにお待ちしています。
